明治の末、本県では大水害が相次ぎ、このため県民は、大変苦しい生活を余儀なくされていました。 この様子を知った明治天皇は、明治44年3月11日、県下の御料地のうち16万4千ヘクタール(台帳面積約298,200町歩)を県民の暮らしの復興のため、本県に御下賜されました。 これが県有林の基となっており、一般には恩賜林と呼ばれています。 県土の約1/3を占める恩賜林は、先人達のたゆまぬ努力により守り育てられ、県土の保全や、林産物の供給を通じて、本県の発展に大きく貢献してきました。さらに近年では、森林の有する安定した水資源の確保や人々に潤いと安らぎを与える効果など様々な機能も重視されています。 |
舞鶴城公園の中央部に高くそびえる尖塔型の石柱が謝恩碑です。 これは明治44年3月11日県内にあった御料地を、明治天皇から大水害によって荒廃した県土の復興に役立てるよう、御下賜になったことを記念して建てられたものであります。 碑の建設は、明治神宮造営局参与工学博士伊藤忠太氏および同局技師大江新太郎氏の設計により、大正6年12月から9年まで3ヵ年、当時の金額でおおよそ10万円を費やして行われました。 使用されている石材は甲州市(旧神金村荻原山)の恩賜林内から切り出されたものです。その採掘、運搬、組み立てには大変な苦労があったといわれていますが、大正9年御下賜10周年を迎える年に碑身が完成しました。 碑の高さ約18.2メートルで、謝恩碑はオベリスク型と呼ばれる古代エジプトに記念碑を、碑台は高さ7.4メートルのバイロン形と呼ばれるこれも古代エジプトに神殿の入り口に設けられた塔状の門の形を模したものであります。 |
県は、県下の入会御料地が本県に御下賜されたことを末永く記念するため、明治44年3月11日御沙汰書を頂いた日を恩賜林記念日と定めました。 県下の小・中学校では、毎年3月11日に御沙汰書の奉読とその内容について説明を行っていました。 大正6年に恩賜林記念日の歌の歌詞の公募を行い、応募された百余点の中から優れたものを選び、芳賀矢一文学博士の校訂を受けた後、東京音楽学校弘田龍太郎教授に作曲を依頼し記念日の歌が完成しました。 以来記念日には小・中学校において記念日の式典の中で歌われましたが、第2次大戦後は教育方針も変わり式典などは行われなくなりました。 現在では、県の行事として毎年3月11日謝恩碑前広場で記念式典が挙行され、知事をはじめ恩賜林保護団体など林業関係者が出席して、御沙汰書の奉読と恩賜林記念日の歌の斉唱を行い御下賜に謝意を表しています。 |
舞鶴城公園の南西端、お堀の北側にある緑色の屋根、石を使った丸い柱の建物が恩賜林記念館であります。 この建物は、恩賜林保護団体が御下賜40周年記念事業として昭和26年に企画し、同28年に完成したものであります。 一見コンクリート建造物に見えますが、恩賜林内から産出した石材・木材を使用し、外壁は人造花崗ブロックからなる2階建の木造建築であります。 規模は1階、2階合わせて810平方メートルあり、建物に要した工費総約1千万円の財源は、県や林業団体の助成金・寄付金と160余の恩賜林保護団体の拠出金によるものであります。 建設された当初、この中には県内に分布する動植物の標本を収集展示し、広く一般に公開されていましたが、現在は主に講演会、研修会などの会場に使われています。 |